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2022.03.19
ブログ
鎌倉殿の13人

NHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」。

今日の日本の地名や先祖のルーツになった武士たちが数多く登場します。

佐渡に最も多い姓である「本間」氏も、元々は相模国の武士で、鎌倉時代の初頭に守護代として赴任してきたのが初代になります。

佐渡には「鎌倉殿」に登場する人物にゆかりの地や品がいくつかありますので紹介します。

 

①真禅寺

佐渡市大久保にある真禅寺は「文覚(もんがく)上人」が佐渡流罪の際に滞在したといわれるお寺です。

文覚は後白河天皇に京都神護寺の再興を強訴したため伊豆に流罪となり、そこで頼朝と知り合います。

頼朝の前に、父義朝のものと称する頭蓋骨を出して、立ちあがって平家を討つよう促した話は有名です。

頼朝、後白河法皇亡きあと、政争に巻き込まれ、佐渡に流罪になりました。

 

②平泉寺

佐渡市丸山にある平泉寺は「海尊上人」が開創したお寺です。

今まで室町時代の僧とされてきた「海尊上人」が、最近になって平安時代末期から鎌倉時代初頭にかけて活躍した「常陸坊海尊」のことではないかという新たな説をとなえています。

常陸坊海尊は奥州の藤原秀衡や源義経と親交があったとされる人物で、源氏と関係の深い園城寺(三井寺)で修業し、大杉権現と毘沙門天を厚く信仰していました。

毘沙門天信仰発祥の地である京都鞍馬寺で義経と出会い、義経が源氏の御曹司、義朝の遺児であることを知ると、源氏を再興して平家を打倒するよう勧めます。

海尊は天狗のような風貌をしており、鹿島神宮の社僧だったともいわれ、義経に剣術稽古をつけたのかもしれません。

その姿が「義経に剣術や兵法を教えた鞍馬天狗」伝説のモデルになったと考えられています。

 

③勝蔵院の笈(おい)

義経が兄頼朝と対立し、奥州平泉へ山伏姿で逃れた話は勧進帳や安宅の関の話で有名ですが、海尊や弁慶と共に同行してきた山伏の一人が、赤泊の勝蔵院の先祖と考えています。

義経の逃避行の経路は様々な説があり、吾妻鏡には伊勢と美濃を経由して平泉に至ったと簡単に書かれていますが、勝蔵院の先祖が熊野在住だったことから、出発地点は熊野で、熊野から伊勢、美濃、白山を越えて加賀、能登を経由して佐渡に渡ってきたと考えられます。

赤泊郷土資料館には勝蔵院が当時使用したと思われる「笈」「錫杖」「数珠」が現存しており、今から836年前に義経を含んだ山伏の一団のうちの一人が身に着けていたものと考えると、歴史のロマンを感じさせてくれます。

 

 

佐渡店 スタッフ

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