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カテゴリー: 生活の中の仏教語

迷惑

迷惑

 現代では、「迷惑」は不利益や不都合という意味で使われています。つまり、他の人がしたことで自分が不利益をこうむったり不愉快さを感じた時や、反対に自分がしたことで他の人に負担や不愉快さを与えてしまい申し訳ないと感じる時などに使いますね。

 「迷惑」という言葉が中国から伝わった時、「迷」は道に迷うことを意味し、「惑」は途方にくれてとまどうことを意味する言葉でした。それぞれの字が示すように、本来は道理に迷いとまどうことを意味する仏教語だったのです。今でも中国や韓国では、「迷いとまどう」の意味で使われている言葉が、日本ではなぜ意味が変わっていったのかには諸説がありますが、協調性を大事にする国民性が影響しているとも言われています。人は一人では生きていけない以上、ちょっとした迷惑はお互い様の精神で、広い心で生活してゆきたいものですね。

とにかく

とにかく

「とにかく」という言葉は、「結果はとにかく、過程が大事だ」など、「何はともあれ」「いずれにしても」という意味があります。また、「とにかく忙しい」など、言葉を強調したいときにも用います。

「とにかく」は、「兎に角」と書くこともあり、仏教語の「兎角亀毛(とかくきもう)」が由来だといわれています。
本来、兎(うさぎ)に角(つの)はなく、亀にも毛はありません。「兎角亀毛」は、絶対にありえないことの例えとして用いられていました。現代の意味と、まったく関係がないのは興味深いところですが、単純に当て字として漢字を拝借しただけのようです。一説によると、この当て字は、文豪夏目漱石が作品の中で多用したことから世間に広まったそうです。

愛嬌(あいきょう)

愛嬌(あいきょう)

現在では、「愛嬌」は女性や子供の表情や言動が、にこにこしてかわいらしい様子を表す言葉として使われています。

もともとは、仏様のお顔が穏やかで、慈愛に満ちていることを表す「愛敬相(あいぎょうそう)」から生まれた言葉です。
古くは「あいぎょう」と読んでいて、「あいきょう」と読むようになったのは室町時代以降だといわれています。
その後、敬愛の意味が薄れ、可愛らしいという意味の嬌という文字に置き換わっていきました。

「女は愛嬌、男は度胸」という言葉もありますが、いずれにしても男女を問わず、愛嬌はないよりもあった方が和やかな雰囲気になり、色々と丸く収まる事が多いようです。

甘露(かんろ)

甘露(かんろ)

「甘露」の語源には諸説あります。

古代中国の伝説では、王が民を思う良い政治をおこなうこと、天がそれを褒めて甘い露を降らせたとされ、中華王朝の年号にも使用されていたそうです。

ヒンズー教の神話では、神々が世界を創るとき、大海をかきまわした際に得た不老不死の霊薬とされ、天上の神々が飲んでいたとか。

仏教の世界では、サンスクリット語の「アムリタ」の意訳で、不死または悟りという意味になります。
転じて、優れた良いもののたとえとなり、仏様のお説教や仏の教えそのものを「甘露の法門」ということもあります。
現代では、甘露煮や甘露飴など、甘味があって美味しい味わいの食べ物や飲み物の代名詞となっていますね。

無頓着(むとんちゃく)

無頓着(むとんちゃく)

「無頓着な人」、「服装に無頓着だ」という言葉を聞くと、何も気にしない、外見に気を使ってない人を思い浮かべます。しかし、仏教の世界においては、無頓着は最高の褒め言葉だということをご存知でしょうか。

無頓着の頓着は、仏教語の「貪着」(とんじゃく)が変化したもので、貪着とは物事に執着し、いくらむさぼり求めても満足せず、それらに心をとらわれるという意味があります。

本来の無頓着という言葉は、おおらかで物事に執着しない、無欲で綺麗な心を表しているのです。

確かに最高の賛辞なのですが、「あなたは無頓着な人だ」と言われて喜ぶ人は少ないのではないでしょうか。実生活ではなぜかマイナスのイメージが定着してしまい、残念な限りです。

食堂(じきどう)

食堂(じきどう)

 食堂(しょくどう)といえば、会話をしながら食事をする場所や店を思い浮かべませんか。仏教の世界では「じきどう」と読み、修行中の僧侶たちが食事を作っていただく建物のことです。初期のお寺のつくりは、信仰の中心となるご本尊をお祀りするご本堂(金堂)のほかに、僧侶が勉強をする講堂、居住の場である庫裡(くり)、経典や書物を収蔵する経蔵など、いくつかの建造物に分かれていました。そのひとつに食堂(じきどう)がありました。僧侶たちが修行をする清浄な場所では、食事を作ることも修行、食べることも修行と考えられています。
 特に禅寺では、食事のときに話をすることを禁じられており、規律の厳しい厳粛な場となっています。
 宗派や時代の流れによって、お寺のつくりや配置などもさまざまな形に変化し、現在は僧侶の庫裡が、食堂(じきどう)も兼ねていることが多いようです。

一蓮托生(いちれんたくしょう)

一蓮托生(いちれんたくしょう)

「こうなりゃ一蓮托生だ」。時代劇などで悪事をはたらく者同士が言うセリフです。
現代では、共に罪を犯したときなどに言われることが多いですが、ほんらいは仏教語で、共に極楽浄土へ行き、同じ蓮の台座の上に生まれ変わるという意味があります。蓮の台座は、極楽に往生した人だけが座れるところで、「托生」とは身を寄せて生きることです。
最終的には皆、極楽で一緒になれるという考えから、お互いが行動や運命を最後まで共にするという意味を持ち、決して悪いケースだけに使用する言葉ではありません。
蓮は水中の泥の中で育ち、清らかで美しい花を咲かせます。その姿は、仏の慈悲や智慧(ちえ)をあらわしているとされ、仏教では神聖な花です。
寺院の仏像を見ると、多くが蓮の台座に安置されており、仏前に飾られた常花(じょうか)や厨子(ずし)、仏壇の扉などの彫刻にも蓮の花が用いられています。

最後まで運命を共にし、「生まれ変わってもなお一緒に」と願うようなふたりだからこそ、神聖な蓮に座るのにふさわしいのでしょう。

葛藤(かっとう)

葛藤(かっとう)

葛藤には、「父と息子の葛藤」のように、人と人とが互いに譲らずに対立することや、「どちらを選ぶべきか葛藤する」のように、心の中に相反する欲求があり、その選択に迷う状態、といった意味があります。

葛藤は、つる草である「かずら(葛)」と「ふじ(藤)」の文字から成り立っており、つるが絡まりまとわりつくありさまを表しています。

仏教の世界では、正道(しょうどう)(正しい道)や修行を妨げるものである煩悩の意味として使われます。仏典『出曜経』(しゅつようきょう)の中では、「葛」と「藤」のつるが、木にまとわりつき枯れさせてしまうように、人が愛と欲に溺れてしまうと自滅すると教えています。また、禅宗で葛藤は、難解な文字や言葉のみにとらわれて、いつまでも議論が終わらないことの意味を表しています。

会釈(えしゃく)

会釈(えしゃく)

知り合いと道ですれ違う時やエレベーターなどで乗り合わせて先に降りる時などに、軽くお辞儀をすることがありますね。人に対して親しみや謝意(しゃい)をこめて、軽くお辞儀をして、ほほ笑んだりするあいさつのことを「会釈」といいます。

会釈は、もともと仏教用語で「和会通釈」(わえつうしゃく)の略語です。「和会通釈」とは、数多くの説法や経典を照らし合わせると、お互いに矛盾しているように思える教えがあり、その相違点を探って共通する意味を見出し、根本の真意が通じるようにまとめていくことをいいます。そこから、ものごとを広く考慮しながら解釈するという意味へと転じ、それが多方面に気を配ることや事情を汲み取って思いやるという意味になっていきました。

「遠慮会釈もない」などと言いますが、これは相手に対する思いやりがないという意味で使われています。会釈には、相手の事情を考慮し、思いやりの気持ちを表すという深い意味があったのです。

慈悲(じひ)

慈悲(じひ)

時代劇などで許しを請うときに「どうかお慈悲を・・・」という台詞を良く耳にします。多くの場合、慈悲は目上の者が目下の者への情けやあわれみをかけるといった使い方をしています。しかし、仏教の世界では、「慈しみ」(いつくしみ)、「悲れみ」(あわれみ)という別々の単語が合わさった言葉です。教義的に、「慈」は楽しみを与えることの与楽(よらく)、「悲」には苦しみを抜き取ることの抜苦(ばっく)という意味があり、目上・目下は関係無く、全ての生命に対して平等な心を持つこととされています。

また、「慈」には「友情」の意味もあり、それは特定の友人にだけでなく、分け隔てない友情を誰にでも捧げるという深い意味もあります。たとえ、自分がどんなに苦しい状況だったとしても、どんな人にでも、常に無償の友情をもち続けることが本当の「慈悲の心」だとされています。

言葉で言うことは簡単ですが、実践するのはなかなか難しいことですね。


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